リブート通信

珠洲飯田港「さいはてのキャバレー」解体開始、震災遺構との別れ

能登半島地震の教訓を胸に珠洲復興支援ツアーが伝える想い

2025年6月30日(月)から、珠洲飯田港のフェリーターミナル「さいはてのキャバレー」の解体作業が始まります。奥能登国際芸術祭の一環として多くの人々に愛され、リブート珠洲の復興支援ツアーでも訪れた震災遺構でもあったこの建物に、お別れを告げたいと思います。

解体開始、能登半島地震による被災 さいはてのキャバレー
解体に向けて足場が組まれた、さいはてのキャバレー

さいはてのキャバレーの歴史

フェリーターミナル時代(1970年代~1981年)
この建物は、1970年代に珠洲市と佐渡島を結んでいた日本海観光フェリーの待合室として建設されました。1975年4月12日から珠洲飯田港と小木港間の航路が開設され、105kmの距離を3時間50分で結んでいました。
しかし、当初見込んだ20万人の利用客に対し、初年度は8万4千人、その後は年7万人程度に留まり、1981年3月に航路は廃止となりました。

芸術作品としての再生(2017年~2024年)
航路廃止後、建物にはイルカの壁画が描かれ、2017年の奥能登国際芸術祭でEAT & ART TAROにより「さいはてのキャバレー」として再生されました。この壁画は、日展会員の日本画家・古澤洋子さんが25年前に手掛けた作品で、飛翔する3頭のイルカが描かれていました。
常設作品として案内所やイベント会場などに活用され、多くの人々に愛される場所となっていました。

能登半島地震による被災

2024年1月1日の能登半島地震により、津波の直撃を受けて建物は全壊判定となりました。窓ガラスが割れ、壁が壊れるなど大きな損傷を受けましたが、イルカの壁画は奇跡的に大きな損傷を免れ、「奇跡のイルカ」と呼ばれるようになりました。

市民や震災遺構保存に取り組む専門家の方々から、この建物を震災遺構として保存し、災害の教訓を後世に伝える場として活用したいという声が寄せられました。
しかし、珠洲市としては「市内全域に地震と豪雨の爪痕が残る中で、まずは市民の生活やなりわいの再建が最優先。飯田港も津波対策など今後の災害への備えが必要」との判断から、解体という決断に至りました。
限られた復興予算の中で、何を優先すべきかという難しい選択の結果でもありました。

津波に壊されたさいはてのキャバレーのホール、右側はステージ

リブート珠洲としての想い

復興支援ツアーでの訪問
リブート珠洲の復興支援ツアーでは、この「さいはてのキャバレー」を震災遺構として多くの参加者の皆様にご案内してきました。津波の威力を物語る建物の損傷と、それでも残り続けたイルカの壁画は、災害の恐ろしさと同時に希望の象徴として、ツアー参加者の多くの方々の心に深い印象を残しました。

別れと新たな歩み
大変寂しい気持ちもありますが、この建物との別れは珠洲の新たな復興プロセスの一歩でもあります。物理的な建物は失われても、ここで感じた想いや学んだ教訓は人々の心の中に永遠に残り続けるでしょう。

海側への沈下や周囲の地割れなど痛みが激しいです 、さいはてのキャバレー

新たな希望への歩み
飯田港の復旧工事が進むことで、珠洲の海の玄関口が新たに生まれ変わります。「さいはてのキャバレー」が果たしてきた交流拠点としての役割は、形を変えて珠洲の復興の中で受け継がれ、その記憶と想いは珠洲の新たな未来への礎として人々の心の中で生き続けます。

リブート珠洲では、引き続き復興支援ツアーを実施しています。珠洲の今を見て、感じることで、一緒に珠洲の復興への歩みを進めませんか?

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